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名 称 : 柴岡山 光珍寺
宗 旨 : 天台宗
本 尊 : 阿弥陀如来


縁起:

 光珍寺はもと岡山寺と称し、東側に隣接する岡山寺と一体の寺であった。「備陽記」によれば、奈良時代・天平勝宝元年(749)に、報恩大師が勅令を奉じて備前国に48ヶ寺を創建したおりに、その第2番として創建されたとされる。
光珍寺本堂
光珍寺本堂
宇喜多家お位牌(光珍寺本堂)
宇喜多家お位牌(光珍寺本堂)
 勝宝6年(754)鑑真和尚が奈良へ向かう途中に立ち寄られる。平安時代・寛弘年中(1004〜1011)には恵心僧都が回国の途次留まる。仁安3年(1168)栄西和尚が宗国に渡り密教を学び帰国した際、法相宗であったのを天台宗に改める。 〔前〕柴岡山光珍寺本堂
戦前の光珍寺本堂(『光珍寺宝物絵葉書』)
〔現〕柴岡山光珍寺本堂
〔現〕柴岡山光珍寺本堂
山号の柴岡山は、もと岡山城内の柴津岡山の地に建立されていたことにちなんでいる。数回の移転の後、磨屋町に落ち着くが、その経緯については諸説があり一定しない。「備陽記」によれば、戦国時代・元正元年(1573)に金光氏のあと入城した宇喜多直家公(豊臣五大老・宇喜多秀家公の父)は、古京町へさらに中山下へと移転させた。この際に直家公は当寺を父、興家公(露月光珍居士)の位牌所としたことにより、岡山寺から光珍寺へと名乗ることになった。
しかし、関ヶ原の戦い(1600)に敗れた宇喜多秀家公は八丈島へ流され、その後、慶長6年(1601)敵方であった小早川秀秋公の入国にあたって、もとの岡山寺へと復号した。慶長16年(1611)池田忠雄公の時代に磨屋町へ移された。慶安5年(1652)お寺の管理に関する公示により岡山寺光珍寺(現在の光珍寺)と岡山寺観音坊(現在の岡山寺)に分かれた。なお、その際に直家公の叔母の菩提寺・円明院と直家公の弟の菩提寺・月窓寺が光珍寺の子院となる。(吉備温故秘録巻之54、紀事の82の条)元禄年間(1688〜1703)に客殿・愛染堂を建立したのをはじめ、以後重層宝形造りの本堂、宝形造りの庫裏などが建立され、しだいに伽藍の整えられていった。
浮田家御墨付
愛染明王像
愛染明王像
愛染明王像は弘法大師作と伝えられ、もと美作国安国寺にお祀りされていたが、天正年間(1573〜1591)に宇喜多直家公が美作攻めの時に、一夜霊夢にて「備前国こそ吾が有縁の土地なれば永く止まるべし」とのお告げにより持ち帰って祀られたものである。この愛染明王像(国宝認定中、戦災にて焼失)は霊験あらたかであり、大正14年に発行された「岡山名勝詩」には 「木像の評判世間に鳴る。門徒帰依人をして驚かしむ。天台の古刹光珍寺。愛染明王利益明らかなり。」と記されている。 また、宇喜多直家公の木像も明治元年に廃院となった石関町の平福院から移され安置されていた。 文化財としても極めて価値の高かった建物や、愛染明王像、宇喜多直家公木像、宇喜多家一族の位牌などは昭和20年(1945)6月29日の岡山空襲によって残念ながらことごとく焼失した。
その後、檀信徒の多大なる協力により昭和55年(1980)11月、鉄筋コンクリート造りの本堂が再建された。 光珍寺は宇喜多直家公の時代から宇喜多家と関わり、一族の位牌をお祀りする宇喜多家の菩提寺として現在に至る。 江戸末期の過去帳
江戸末期の過去帳