宇喜多直家公と愛染明王

 光珍寺には宇喜多直家公ゆかりの「愛染明王像」がお祀りされていました。

 この愛染明王については、「柴岡山露月光珍寺本尊愛染明王略縁起」(正徳元年、弘化二年写)によると
「抑当寺の本尊愛染明王は弘法大師の真作也、むかし山城の国白河のさとまる堂の本尊なりしが、応仁のころ作州安こく寺の住僧都に登しとき、召仕し小童に物のけついて、われはまる童の護法神なり、このころの兵火己に仏閣にかかりしゆへ、本尊をしばらく淤泥の中にかくし置ぬ。汝はやく本国へうつし奉り浄水を以てそそぎ至心にいのらば、所願心のままなるべしと、かの僧身もいよたちてきひの思ひをなし、其処を尋ぬるに、はたして一躯の霊像泥中にましましけり、信心肝に銘じ、急ぎ本国へ供奉しければ、同国の長者金屋太郎兵衛なる者、此尊のきとくをかんじ、一宇を建立して安置し奉りぬ。今に至て諸願を祈るに、かなへ給はば浄水を以てきよめ奉んとて、杓の底なきを奉り、其願成就するとき、その底を入て奉る事、なをこの因縁によれり、これ則大悲の方便、さつたの利物なるもの歟。其後当寺の大旦越宇喜多直家卿あ夜の霊夢に、我は安国寺の愛染明王なり、備前こそ有縁の地なれば、永くこの国に止るべしと、よつて護持僧澄弁法印に命じて、当寺の本尊とはあがめ奉りし也。しかるに寛永の頃国中さはがしき事ありて、因州鳥取観音院へうつし奉りしに、先住天純法印の夢に、はやく備前へ帰るべしと、再三つげ給ひければ、いかにもしてかへし奉らんと往反数度に及べ共、霊かん不測にましませば、深くおしみてがへんぜず、時に天純これとも尋常の計ひにては事なりがたしと、みづから刀杖を帯て不惜身命のちかひをおこしかろふじて終にむかえへ奉りぬ。かく当国有縁の尊像なればれひけんいちじるきことあげて数ふべからず。夫此尊の利生広大なる事、神力を十方に施し、無縁の大悲深重にして、嫉妬怨讐のもののためには、帰依染愛の心をおこさしめ、障碍難悪のもののためには、擁護愛染の思ひをなさしむ、ここを以て一心にいのれば現世安穏にして、家内ぬつまじく福寿増長し、後世には善所におもむき早くぼたひの岸に至る事うたがひ有べからず、殊に五障垢穢の女人をあはれみ給ふがゆへに、此尊に帰依する輩ただちに一切のさわりをのぞき、諸人にあひ敬せられて、夫婦縁なきも求むるにしたがつてすみやかにさづけたもふ、須べて心のほつする所、現当二世の諸願一として成就せずとゆふ事なし、このゆえに略当尊の縁由を述べて、諸人に勝えんをむすばしむるもの也。

正徳元年辛卯春三月 当山住持法印澄弁記
衆人愛敬守 安産守 求子守 不浄除守 金神除守
右懇望によつて施与すべし

時弘仁(化力)二乙巳歳徂暑昂宿念二十有六日徒酉至戌刻詔訟奉為本尊開扉僧英三五転読般若供倍増于時雖有桜木略縁起、及至後世也畢悲歎闕宇奉乞為書写于時旭東之賢士尾沢善信君試筆竟克納殿最是顧庶幾有る補風化之万一云爾柴岡山主季夏下澣再改   澄栄敬白」(昭和七年 宇喜多直家墳墓考より)
とあります。

 愛染明王は人間の愛欲のエネルギーを仏の悟りへ昇華、和合・親睦を祈る敬愛法の修法本尊としてもお祀りされる福徳円満を授けるほとけさまです。

当寺の愛染明王は、「岡山名勝詩」(大正十四年編纂)に「木像の評判世間に鳴る。門徒帰依人をして驚かしむ。天台の古刹光珍寺。愛染明王利益明らかなり。」と記されているように人々の信仰を集めました。

 直家公は計略・調略を多用したので「戦国の三大梟雄」といわれますが、
一.備前金山寺、鳥取大山寺、比叡山延暦寺の堂塔を復興した豪円僧正の願いにより、領内の荒廃した社寺を復興したこと。
一.明禅寺合戦の敵方戦死者も供養したこと。(湯泊万燈会)
一.隣国が大国に囲まれていたのに、領内で大規模な戦乱も起きなかったこと。
から、領民の評価は悪くなかったのではないかと存じます。

 直家公が愛染明王をお祀りした心中は存じませんが、岡山の地が荒廃することなく、政令指定都市になるまでの礎を築いた功績はもう少し評価されても良いのではないかと存じます。