光珍寺は奈良時代・天平年間に創建された備前四十八ヶ寺の第二寺と伝えられております。
江戸時代末期の寛政年間に編纂された「吉備温故秘録巻之三十 佛刹四 縁起 光珍寺略縁起」によると
|
「光珍寺は、昔は岡山寺と云て、今の御城の山に有之。此処を柴津岡山と云に付、岡山寺と名付る由。開基は銘金山之報恩大師にて、弥陀尊安置の霊場也。報恩は南都龍門寺の義淵僧正の弟子にて法相宗也。其後多の星霜を経て、人法衰へたる比、人皇六十六代一條院の御宇、寛弘年中、慧心僧都回国の時、暫く岡山寺に留りて、本佛の首を腹込にして、弥陀尊を作り、並びに観世音勢至を作り添て天台宗に改め給てより以来、今ここに至るまで、七百余年也、吉備津之神宮、藤井久任、柴津国の弥陀堂の前に来りて、火定に入しと、元亨釈書(※鎌倉時代末期の撰)第十七巻に記せるは当寺の事也。天正の初、宇喜多和泉守直家、当城御取立に付、岡山寺を古京町の辺へ御引せ成され、又、其後中山下へ御引せ、直家の父興家の御位牌所に成さる、興家の戒名を露月光珍居士と申すに付、其時より岡山寺を光珍寺と申由。其節の光珍寺の住持は、平福院澄弁法印と申由、澄弁は東叡山天海大僧正同学の僧にて、比叡山南楽坊の住持にて御座候、数代南楽坊より、上道郡築地山を持候に付、澄弁築地山の住持禅定坊に参居申節、直家御小身の内より、懇志を運候に付、澄弁へ知行二百石下さる、三ヶ国の寺社奉行を相勤、常には内山下平福院寺に居申、光珍寺を兼帯にて相勤候。宇喜多中納言秀家卿の代に、澄弁弟子澄宣を光珍寺住持に仕候節、後々の為に御座候間、地方にて下され候やうにと望申候得ば、文禄四年より、備中国窪屋郡西庄村にて高五十石下され候、後又改めて津高郡芳賀村にて下さる。武蔵守様御代より、今ここに至るまで津高郡一ノ宮村にて下され候、慶長五年関ヶ原にて、秀家敗軍の後、羽柴中納言秀秋卿、御入国の節、宇喜多家をば御嫌成さるるに付て、光珍寺元は岡山寺にて御座候間、昔の寺号を名乗申度由申候、而秀秋卿の代より、光政公御代迄は、御折紙にも岡山寺と成され下され候、然れども、人々光珍寺と申馴候故、今まで光珍寺と申候、慶安五年に光珍寺岡山寺両寺号共に名乗申様に仰付らる。本堂、昔は大き成堂にて御座候処、二三十年間の間に三度の所替之有に依て、大きなる阿弥陀堂を狭く建つる不勝手に之有故、元禄年中より客殿に本尊を置、本堂に愛染を置申候、弥陀三尊は、右に書記す如く、恵心の作、愛染明王は弘法大師の作にて、美作国安国寺の本尊なりしを、天正年中、宇喜多家作州を討取候節、当寺へ移さる、世に希なる古佛なり」※備陽記(享保二年)にも同様の記載
|
とあるので、当時もこのように伝えられていました。
前記のように、光珍寺は宇喜多直家公の時に父親の興家公の位牌所となり、興家公の戒名が「露月光珍居士」ということで岡山寺から光珍寺へ寺号を変更、以来、宇喜多一族の菩提を弔う寺として現在に至ります。
宇喜多家ゆかりの品としては
|
一. | 宇喜多一族の位牌 |
二. | 宇喜多直家公木像 |
三. | 宇喜多直家公護持仏 愛染明王像 |
四. | 宇喜多秀家卿寺領米寄進の折紙(豊臣秀家の黒印) |
五. | 宇喜多秀家卿「南無阿弥陀仏」名号一筆 |
が戦前までありましたが、残念ながら第二次大戦による空襲により、寺と共に焼失してしまいました。
現在は、新たな宇喜多一族の位牌と前記二〜四の写真の他に
|
一. | 宇喜多秀家卿木像(元禄十七年 法橋民部作 浮田秀明氏より寄託) |
二. | 宇喜多秀家卿書状(宇喜多家史談会会報十四・十五合併号を参照のこと) |
三. | 江戸末期の過去帳「浮田家戒名控え」 |
があります。
この過去帳には
|
◆能家公 |
玄冲常玖居士 天文三年六月晦日 |
◆興家公 |
露月光珍居士 天文五年六月晦日 |
◆直家公 |
凉雲星友大居士 天正十年正月九日 |
◆秀家公 |
広修院殿前三位妙相全誉 寛文七年五月四日 ※行年は九十七才となる。 |
◆直家公弟 (春家のことか) |
月窓寺 檀那 月窓円心居士 永禄六年二月五日 |
◆興家公御妹 |
円明院 檀那 心月円明大姉 文禄元年六月二十四日 |
◆浮田河内守助家 |
清光院櫻雲顕妙居士 慶長五年九月十五日 行年五十二才 |
と記載されています。
秀家卿については、八丈島に伝わる
|
◆尊光院殿秀月久福大居士 |
明歴元年十一月二十日(行年八十四歳)日 |
とは異なりますが、岡山でも秀家卿の供養をしていたことは確かなことと存じます。
光珍寺は小早川、池田両家の庇護も受けていましたので、両家は宇喜多一族の供養をすることをとがめなかったのでしょう。
※ |
金吾中納言秀秋在判寺領百石寄付折紙一枚:慶長六年六月五日(備陽国誌 元文二年撰)現存せず |
※ |
池田光政判物寺領五十石寄付折紙一枚(吉備温故秘録):現存せず、写真有 |
慶安五年には一山争議(吉備温故秘録巻之五十四、紀事四の八十二)により、光珍寺は柴岡山岡山寺光珍寺と称し、西の光珍寺側にある円明院と月窓寺を支院とし、隣接する岡山寺は金光山岡山寺観音坊と称し、東の観音坊側にある清鏡寺を支院とすることになりました。
「光珍寺は隣接する岡山寺の支院」と言われる方がおりますが、
|
一. |
岡山寺光珍寺のご本尊は「阿弥陀如来」、岡山寺観音坊は「千手観音」であること。 |
二. |
光珍寺の山号は柴岡山、観音坊は金光山であること。 |
三. |
一山争議の際、光珍寺は寺領五十石、観音坊は四十石となったこと。 |
四. |
光珍寺には興家公の位牌、観音坊には直家嫡子の位牌があったこと。
※「吉備温故秘録 巻之二十七の注記」には円明院には「円明の位牌あり(※興家妹のこと)」、月窓寺は「月窓円心の位牌あり(※直家弟のこと)」、観音坊には「直家の嫡子亀松童子の位牌あり」、清鏡寺には「直家息女、清月明鏡の位牌あり、故に寺号とす」とあります。
|
五. |
光珍寺の寺紋は宇喜多家の家紋、剣かたばみであること。 |
六. |
光珍寺には宇喜多家ゆかりの品があったこと。 |
からご判断を賜りたく存じますが、元々は宇喜多一族の位牌をお祀りする一体の寺でした。
近年、宇喜多直家、秀家親子の功績について再評価の機運が高まり、山陽新聞でも堺屋太一氏の「三人の二代目」という連載小説(産経・山形・神奈川・信濃毎日・京都・神戸・愛媛・宮崎日日新聞等でも連載)で毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家が取り上げられることになりました。
また、歴史好きな女性にも「宇喜多親子は逆境にもへこたれず、生き抜くところがかっこいい」ということで人気があり、今年のバレンタインデーにはチョコレートがお供されましたが、創建千二百六十年の歴史で初めての出来事と存じます。
これもひとえに皆さまの一方ならぬお力添えの賜物と感謝いたしております。
今後も宇喜多家の位牌をお祀りする寺として供養と顕彰に勤めてまいりますので、変わらぬご厚情を賜りますよう心よりお願い申し上げます。
平成21年10月
|